小学二年生になる前の三月、僕たちは下北沢へ引っ越した。
マンション下北沢。
代沢三叉路に建つ八階建てのマンションで、僕たちは六階の六〇一号室に住んだ。角部屋だった。冬の晴れた日には、ベランダから富士山が見える。
その頃の下北沢は、今みたいなおしゃれな街じゃなかった。
パチンコ屋と丸井くらいしかない、少し暗い街だった。
でも、子供の僕には、それでも十分に都会だった。
荻窪より人が多い気がした。
実際には、商店街に人が集まっていただけなのかもしれない。
道も狭かった。
夜も少し明るい。
それだけで、子供だった僕には、なんだか大人の街へ来たような気がしていた。
マンション下北沢の部屋は三LDKだった。
そのうちの一部屋は、本当なら僕の部屋になるはずだった。でも結局、その部屋は父親の寝室になる。
父は暑がりだった。クーラー付きの部屋を気に入り、半ば強引に自分の部屋へしてしまった。
「まだ子供には早い」
父はそう言っていた。
でも今思えば、母が父と一緒に寝たくなかったのだと思う。
その頃から、二人の間には少しずつ亀裂が入っていたのかもしれない。
子供というのは、大人が隠している空気を案外ちゃんと感じている。
ただ、それが何なのかを説明できないだけだ。
母がまだパートへ出ていなかった頃、昼ごはんにキャベツとコンビーフ炒めを作ってくれたことがあった。
コンビーフの油でキャベツを炒めるだけの簡単な料理だ。
でも、それが妙にうまかった。
少し焦げたキャベツの甘さと、コンビーフの脂っぽい匂いが混ざると、それだけでご飯が食べられた。
母がパートへ出るようになると、昼間、僕ひとりで家にいることも増えた。
すると今度は、自分でその料理を作るようになる。
フライパンにコンビーフを入れる。
ジュッと音がして、脂が溶ける。
そこへキャベツを放り込む。
子供だから、味付けなんて適当だったと思う。
でも、台所いっぱいに広がるあの匂いだけは、今でもはっきり覚えている。
豪華な料理ではない。
でも、キャベツとコンビーフ炒めの匂いをかぐと、六〇一号室の台所が、一瞬で目の前へ戻ってくる。
今でも、僕の好きな料理だ。
小学校の横には北沢川が流れていた。
今は埋め立てられて遊歩道になっているけれど、当時はちゃんと川だった。
僕はその川が好きだった。
夏になると匂いが変わる。
どぶ臭いような、水草みたいな匂い。
その匂いをかぐと、
「ああ、夏だな」
と思う。
小学三年生くらいになると、北沢川の工事が始まった。
少しずつ川が消えていく。
子供だった僕には、それが不思議だった。
川って、なくなるんだ。
そう思っていた。
やがて川は埋め立てられ、遊歩道になる。
そこには噴水ができた。
近所の人が、その噴水でスイカを冷やしていたことがある。
僕はそのスイカを持って行ったことがある。
どうしたのかは覚えていない。
食べた記憶もない。
大きすぎて怖くなり、途中で戻したのかもしれない。
子供の悪事というのは、途中で急に罪悪感だけが大きくなることがある。
最初に飼ったペットはハムスターだった。
夜行性なので、夜になると回し車をガラガラ回す。
うるさいので、夜は風呂場へ置かれた。
冬になると寒そうで、僕は細かく裂いた新聞紙を寝床へ入れてやる。
ある日、ハムスターがいなくなった。
家中探した。
でも見つからない。
しばらくして、父親のベッドの下で死んでいた。
たぶん寒かったのだろう。
僕は、生き物を飼うのが本当に下手だった。
大事にはしている。
でも、うまく生かせない。
その感じは、ヤゴの時と少し似ていた。
次に家へ来たのが、マルチーズのダダだった。
父が船宿からもらってきた。
名前の由来はよくわからない。
「だだっこ」から来ているらしい。
「きかん坊」という意味だとも聞いた。
ダダは確かにきかん坊だった。
朝、僕が起きてトイレへ行こうとすると、必ずパジャマの裾に噛みついてくる。
うなりながら噛みつくので、仕方なく引きずりながら歩いた。
僕のパジャマの裾は、いつもボロボロだった。
散歩へ行くと、墓地の横の坂道でよく逃げ出した。
追うと逃げる。
止まると、ダダも止まる。
じっとこちらを見ている。
しばらくすると、何事もなかったように戻ってくる。
たぶん、遊んでいたのだと思う。
家族旅行は、あまりした記憶がない。
父は新聞記者で、まとまった休みが取れなかった。
それでも一度だけ、伊豆へ旅行に行ったことがある。
都はるみが『北の宿から』でレコード大賞を取った年だった。
宿で紅白歌合戦を見て、神社へ初詣にも行った。
でも、あまり楽しかった記憶がない。
父と母の間には、もう重たい空気が流れていた。
ダダはペットショップへ預けられた。
旅行から帰り、迎えに行くと元気がない。
家へ戻ってもぐったりしていた。
そっと撫でると、腹に傷があった。
ムチで叩かれたような傷だった。
父がペットショップに問いただすと、
「夜中うるさかった。ケージから出したら噛みついたので叩いた」
と言われたらしい。
僕は許せなかった。
子供ながらに、ものすごく腹が立った。
数日後、ダダは死んだ。
旅行なんか行かなければよかった。
その気持ちは、今でも残っている。
やんちゃだったけれど、かわいかった。
ダダは「きかん坊」じゃなかった。
本当は、甘えん坊だったのだと思う。
父は、釣りの世界では顔が広かった。
新聞記者だったこともあるが、それ以上に、本当に釣りが好きだったのだと思う。
千葉県の大原へは、夏休みになるとよく連れて行かれた。
父はマダイ釣りが大好きだった。
まだ暗いうちに船が出る。
朝三時過ぎには港へ向かう。
眠い。
でも港へ着くと、不思議と目が覚める。
海の匂い。軽油の匂い。エンジン音。船のライト。
港には、大人たちの興奮が漂っていた。
父は、マダイを釣るために生きているような人だった。
大原には、中井一族と呼ばれる釣り師たちがいた。
紀州から旅船で、ビシマ釣りを広めた人たちだった。
ビシマ釣りというのは、太いナイロン糸に小さなグミオモリを二十センチおきにつけ、先に十メートルほどのハリスを結び、その先にカブラをつける。
それを手で操ってマダイを釣る。
大きなマダイが掛かると、腕が持っていかれるような引きだった。
後に僕も、この釣りに夢中になる。
でも子供の頃の僕は、父が大漁で帰ってくると、
「ちぇ、またタイか」
と言っていたらしい。
今思えば、贅沢な話だ。
大原には、母も来たことがある。
でも、やることがない。
父は朝から晩まで釣りだ。
僕は船宿の子供たちと海へ行ったり、プールへ行ったりして遊んでいた。
だから、母はだんだん来なくなった。
その代わりのように、宮坂さんが来るようになる。
父の部下だった。
釣りはしない。
でも、僕たちを海水浴へ連れて行ってくれた。
まだ小さかったので、子供だけで海へ行くのは禁止されていた。
宮坂さんは優しかった。
でも、忘れられない出来事もある。
父がマダイを釣って帰ると、同僚や部下を家へ呼んで鍋を囲んだ。
その日も宴会だった。
途中で、僕は大きい方をしたくなった。
慌ててトイレへ行く。
でも流し忘れた。
そのあとトイレへ入った宮坂さんが、
「徹のウンコ見ちゃった!」
と笑いながら言った。
今なら何とも思わない。
でも当時の僕には、ものすごく恥ずかしかった。
小学校では、大きい方をすると、からかわれた時代だった。
個室へ入るだけで笑われる。
だから、その時の羞恥心は、今でも覚えている。
父が釣ったマダイは、よく近所へ配られた。
作曲家の 吉田正先生 の家にも届けた。
家はすぐ近くだった。
僕が持って行くことも多かった。
吉田先生、本人に会うことはほとんどなかったが、届けると果物やお菓子を持たせてくれた。
それが嬉しかった。
日刊スポーツの社長の家にも持って行った。
少し遠かったが、自転車なら行ける距離だった。
魚を届けるたび、
「親父って顔が広いんだな」
と思っていた。
父は、スポーツ関係者とも親しかった。
中でも、日本陸上競技連盟会長だった 青木半治さん とは特に親しかった。
蓼科高原へ連れて行ってもらったことがある。
夏だった。
黄色いニッコウキスゲが一面に咲いている。
高原の風は冷たく、東京とは全然違う空気だった。
ホテルの庭には噴水池があり、大きなニジマスが泳いでいた。
父や青木夫妻は、旅行中ほとんど麻雀をしていた。
麻雀なんてどこでもできるのに、と子供ながらに思っていた。
暇だった僕は、トンボを捕まえ、羽を少しむしって噴水池へ投げ込んだ。
ニジマスたちは、我先にと奪い合う。
残酷だったと思う。
でも、その時の僕には、それが面白かった。
ホテルにはプールもあった。
そこで、競泳の金メダリストだった田口信教さんと偶然会った。
一緒に写真も撮った。
父の周りには、なぜか有名人が普通にいた。
小学校の低学年の頃の記憶は、あまりない。
転校生だったから、馴染めなかったのかもしれない。
ただ、最初の担任だった江藤先生のことだけは妙によく覚えている。
雨の日、傘立てに傘を置く時には、
「傘の布は巻かなくていい。でも、骨だけはちゃんと止めなさい」
と言った。
今思えば、どうでもいい話だ。
でも、子供の記憶というのは不思議なもので、そういう断片だけがいつまでも残っていたりする。
同じマンションの二階には石川真司くんが住んでいた。
同級生だった。
別に仲が悪かったわけではない。
でも、一緒に遊んだ記憶もほとんどない。
石川くんは 石川啄木 のひ孫で、学校でも有名人だった。
人気者だった。
僕は、そういう人気者とどう接していいかわからない子供だった。
五年生くらいになると、少しずつ友達が増えた。
小坂くんとは、よくキャッチボールをした。
彼がキャッチャーで、僕がピッチャーだった。
キャッチボールというより、投球練習だった。
僕は本当はピッチャーになりたかった。
でも球は遅いし、コントロールも悪い。
野球の才能は、まるでなかった。
少年野球にも少し入った。
でも試合には出してもらえなかった。
すぐ辞めた。
悔しかったというより、
「ああ、自分は向いてないんだな」
と妙に冷静に思った記憶がある。
坂谷くんの家は郵便局だった。
ある日、石投げをして遊んでいて、車のフロントガラスを割った。
乾いた大きな音だった。
その瞬間、二人とも固まった。
逃げようとも思った。
でも結局、すぐ大人に見つかり、こっぴどく怒られた。
もちろん弁償したのは、僕たちの親だ。
あの時の帰り道の重たい空気を、僕はよく覚えている。
関口くんは五年生くらいの頃に引っ越してきた。
大きな一軒家だった。
彼の家では、麻雀牌を積んで遊んだ。
麻雀は二人じゃできない。
だから、どれだけ長く積めるか競争した。
でも小学生の小さな手では途中で崩れてしまう。
それが悔しくて、何度もやった。
ある日、関口くんが自慢げに言った。
「田舎からカブトムシの幼虫がいっぱい送られてきた」
勝手口の横に、大きなポリバケツが置いてある。
中には腐葉土が入っていて、その中に幼虫がいた。
白くて太い幼虫だった。
僕は数匹もらって帰った。
……いや、「もらった」というより、勝手に持っていったのだと思う。
その頃の僕は、生き物に対する欲望が強すぎた。
欲しいと思うと、理性より先に手が出ていた。
五月の半ばになると雨が多くなり、ふと甘い匂いが漂ってくる。
ニセアカシアの花の匂いだった。
その匂いを嗅ぐと、
「ああ、アイボの季節だ」
と思う。
アイボというのは、小さな黄色いハチだった。
正式な名前は知らない。
でも僕たちはみんな、そう呼んでいた。
ハチと言っても刺さない。
手でも簡単に捕まえられる。
捕まえたアイボの体に木綿糸を結び、飛ばして遊ぶ。
糸の先で、黄色い小さな体がブンブン飛ぶ。
今思えば残酷だ。
でも、子供だった僕らには、それが楽しかった。
たぶん、「相棒」みたいに見えたから、アイボだったのだと思う。
風の噂で、一ノ瀬さんが 世良公則 を好きらしいと聞いたのも、この頃だった。
荻窪の頃、一緒にリカちゃん人形で遊んでいた一ノ瀬さんだ。
僕は、一ノ瀬さんに手紙を書いた。
「会って話がしたい」
そんな内容だったと思う。
でも返事は来なかった。
当たり前だ。
それでも当時の僕は、ポストを覗くたび、少しだけ期待していた。
マンションの近くには、防空壕があった。
駐車場の端にぽっかりと口を開けた黒い穴で、昼間でも薄暗く、不気味だった。
もちろん中に入る勇気なんかなかった。
でも、そこは関口くんの家へ行く近道でもあった。
だから何度もその前を通る。
子供というのは、怖いものほど見たくなる。
防空壕の近くを通ると、夕方になるとコウモリが飛んでいた。
何匹もいた。
黒い小さな影が、夕暮れの空を不規則にひらひら飛んでいる。
「すげぇ……」
と思った。
よく見ると、一匹、小さなコウモリが地面に落ちていた。
羽をばたつかせていたが、うまく飛べないようだった。
僕はそっと拾い上げる。
小さく、温かかった。
家へ持ち帰り、箱へ入れた。
図鑑で調べると、コウモリは蚊を食べると書いてある。
でも、どうやって蚊を捕まえればいいのかわからない。
マンションの六階には、蚊なんてほとんど来ないのだ。
その時、ふと思い出した。
マンション近くの寺だった。
墓地の真ん中に、小高い山がある。
夏の夕方になると、そのあたりには蚊柱が立つ。
僕は虫網を持って墓地へ向かった。
夕暮れの墓地は少し怖かった。
でも、コウモリを助けたい気持ちの方が強かった。
蚊を何匹か捕まえ、急いで家へ帰る。
そして、そっと箱を開けた。
コウモリは死んでいた。
静かに。
まるで最初から置物だったみたいに。
僕はしばらく、その小さな体を見ていた。
悲しかった。
でも、それ以上に、
「また駄目だった」
と思っていた。
ヤゴもそうだった。
ハムスターもそうだった。
僕は、生き物をうまく生かせない。
そのことが、子供ながらに少し怖かった。
墓地には、よく遊びに行った。
怖いもの見たさだった。
墓地の真ん中にある小高い山へ登ったりもした。
夕暮れになると、なんとなく空気が変わる。
少し湿っぽく、静かになる。
その墓地は、マンションのベランダからも見えた。
だから僕は、夕方になるとベランダへ出て、ぼんやり墓地を眺めることがあった。
そして、ある日、不思議なものを見た。
青白い炎だった。
最初は、遠くの墓地の上を漂っていた。
ふわふわしている。
風船みたいでもあり、蛍みたいでもあり、でも、どちらとも違う。
僕は目をこすった。
でも消えない。
炎は、ゆっくりこちらへ近づいてくる。
静かだった。
音はしない。
ただ、青白い光だけが、夕暮れの空を漂っている。
気づくと僕は、部屋へ駆け込み、虫網を持ってきていた。
捕まえられると思ったのだ。
子供だから。
でも当然、届かない。
炎は六〇一号室のベランダ近くまで来ると、ふっと止まり、しばらく空中を漂った。
僕は息を止めて見ていた。
怖いのに、目が離せない。
次の瞬間だった。
炎は急にスッと速度を上げ、そのまま墓地の方向へ戻るように消えていった。
あれが何だったのか、今でもわからない。
火の玉だったのかもしれない。
でも、あの時の僕は、本気で幽霊だと思っていた。
UFOも見た。
夕暮れだった。
富士山の方向に、黄色い光が見えた。
飛行機とは違う動きだった。
止まったと思うと、急に横へ動く。
また止まり、一気に加速する。
僕はベランダに張りついて、それを見ていた。
怖いというより、興奮していた。
「本当にいるんだ」
と思った。
翌日の 朝日新聞 に、その話が載っていた。
同じ時間、同じ方向に光を見たという問い合わせが多数あったらしい。
新聞には、
「あれはいったい何だったのだろう」
と書かれていた。
それを読んで、僕はますます本物だった気がした。
父がスポーツ記者だったせいか、家には朝日新聞も日刊スポーツもあった。
新聞というものは、子供にとって不思議な存在だった。
大人だけが知っている世界が書いてある気がしていた。
その頃、家には大きなステレオがあった。
ビクター製だったと思う。
両脇に大きなスピーカーがついていた。
犬の置物があった気がする。
最初に聴いたレコードは、五木ひろし の『夜空』だった。
何度も聴いた。
黒ネコのタンゴ も流行っていた。
これも何回も聴いた。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン の『運命』は、自分で初めて買ったレコードだった。
ステレオの前へ座る。
ジャジャジャジャーン――
を聴く。
それだけで鳥肌が立った。
音楽というより、“音”そのものに興奮していたのかもしれない。
でも、そのステレオに、ある日、赤紙が貼られた。
男が二人やって来た。
母と玄関で何か話したあと、部屋へ入ってくる。
そしてテレビやステレオの裏に、赤い紙を斜めに貼っていった。
父の借金だった。
子供だった僕には意味はわからない。
でも、異様な空気だけはわかった。
家の中に、他人が土足で入ってきて、大事なものへ勝手に印をつける。
その光景は、とても怖かった。
結局、テレビもステレオも持って行かれなかったが、あの斜めの赤い紙だけは、今でもはっきり覚えている。
その頃になると、母はパートへ出るようになった。
父があまりお金を入れなくなったのだろう。
夕方になると、僕は窓から外を見ていた。
母が帰ってくる方向を。
なぜか、
「もう帰ってこないかもしれない」
と思っていた。
理由はわからない。
でも、そう思っていた。
母の姿が見えると、ほっとする。
安心する。
そして、また普通の夜が始まる。
今思えば、あの頃の僕は、ずっと不安だったのかもしれない。
でも、その不安を言葉にはできなかった。
子供だから。
いや、子供だったからこそ、何も言えなかったのだと思う。
そして僕は、高校生になる時、その母を裏切ることになる。
窓から帰りを待っていた人を。