なぜ子供の頃の記憶というのは、匂いと一緒に残るのだろう。
キャベツを炒める匂い。コンビーフの油の匂い。北沢川の少し泥っぽい匂い。墓地の湿った土の匂い。夏の夕方、蚊柱の立つ空気の匂い。そして、母親の口紅の匂い。
目を閉じると、最初に浮かぶのは、そういうものだ。
僕は昭和三十九年十一月二十六日、杉並区荻窪にある荻窪病院で生まれた。
東京オリンピックが終わった直後だった。
名前は、父親と親しかった田畑政治さんがつけてくれたらしい。後にNHK大河ドラマ『いだてん』で主人公になる、日本水泳界の大御所だ。
「徹」
子供の頃の僕は、この名前があまり好きじゃなかった。どこか堅苦しく感じたのだ。
でも今になって思う。あの時代には、ああいう名前が似合っていたのかもしれない。
父は日刊スポーツの記者だった。釣りが好きだった。いや、「好き」というより、人生そのものだったのだと思う。
家にはあまり帰ってこなかった。職業柄、仕方がなかったのかもしれない。それでも、帰ってくると時々、釣り堀へ連れて行ってくれた。
釣り堀は遠かった。
どこにあったのかは、もうよく覚えていない。ただ、父と二人で出かけるということが、子供の僕には特別だった。
釣り堀に着くと、父はあまり喋らない。竿を出し、浮きを見つめる。僕も真似をして竿を持つ。でもすぐに飽きる。水面は静かで、魚がいるのかいないのかもよくわからない。
魚が釣れた記憶は、あまりない。でも、楽しかった気がする。たぶん釣りそのものではなく、父と一緒にいることが嬉しかったのだと思う。
父は海外取材も多かった。
オリンピックや世界大会に行き、帰国する時には、母と一緒に羽田空港へ迎えに行った。空港は、外国の匂いがした。
本当に外国の匂いだったのか、子供の僕が勝手にそう思い込んでいただけなのかはわからない。でも、外国帰りの父は、家にいる父とは少し違って見えた。少し大きく、少し遠い人に見えた。
そして、その父はまた、すぐ家からいなくなる。
子供の僕は、そのことを不思議とは思わなかった。そういうものだと思っていた。父親というのは、たまに帰ってくる人なのだと。
でも今思うと、あの頃の僕は、いつも少しだけ父に気を使っていた気がする。久しぶりに帰ってきた父を、がっかりさせたくなかったのだ。
幼稚園は、みどり幼稚園だった。
発表会で、自分で描いた絵を掲げながら将来の夢を発表する時間があった。
僕はジャンボジェットのパイロットになりたかった。
「スチュワーデスは春見さんです」
なぜそんなことを言ったのかは覚えていない。でも教室が少し笑った記憶がある。
たぶん、その頃から春見さんが好きだったのだと思う。ただ、好きだとは言えない。
それで後になってからも、僕は春見さんを替え歌でからかった。
「春見の小便たれ~」
「アルプス一万尺」の替え歌だ。
今なら完全に問題になる。でも、あの頃の子供は好きな子ほどからかった。そして、本当に好きなことだけは、絶対に言えなかった。
餅つき大会では、杵をうすにぶつけてしまい、木くずが餅に入った。怒られたような気もする。でも、その頃の大人は今ほど神経質じゃなかった。木くず入りの餅も、たぶん普通に誰かが食べた。
僕はその時、なんとなく気まずい気持ちになった。自分が悪いことをしたのはわかっている。でも、どう謝ればいいのかはわからない。
子供の頃の失敗というのは、だいたいそんな感じだ。
僕は小さい頃から落ち着きのない子供だった。
小石を鼻の穴に入れて取れなくなったこともある。なぜ鼻に石を入れようと思ったのかは、今でもわからない。
通学路に落ちていた、まだ火のついた煙草を吸ってみたこともある。もちろん、むせ返った。
「なんで大人はこんなもの吸うんだろう」
と思った。
でも大人になると、自分も普通に煙草を吸うようになるのだから不思議だ。
公文にも通った。絵画教室にも通った。けれど、勉強が好きだった記憶はないし、絵が特別うまかった記憶もない。
外で遊ぶ方がずっと好きだった。
僕にとって世界は、紙の上よりも、道路や公園や階段の方にあった。
幼稚園の頃に住んでいたアパートは「富士見荘」といった。
古い木造アパートだった。
ある日、その急なコンクリート階段から落ちた。かなり上の方からだったらしい。
「死にかけたのよ」
と後に母から聞かされた。
でも僕自身は覚えていない。
子供というのは、自分の大事故を案外覚えていないものだ。覚えているのは、むしろどうでもいいことだったりする。
ストローの蛇腹が伸びること。餅に木くずが入ったこと。怒られた時の大人の顔。
そういうものばかりが、妙にはっきり残っている。
父と初めて川釣りへ行ったのは、多摩川水系の浅川だったと思う。
ハヤ釣りだった。
父は真剣に竿を見つめていた。でも僕は途中で飽きてしまい、河原で遊び始めた。
ヤゴを見つけた。
「ヤゴがいたぞー!」
と叫ぶと、父が怒鳴った。
「大声出すな! 魚が逃げるだろ!」
父もその日は釣れていなかった。たぶんイライラしていたのだと思う。近くに他の釣り人がいたのかは覚えていない。
でも、その時、川釣りでは大声を出してはいけないのだと覚えた。魚よりも、父の怒鳴り声の方が、ずっと大きく僕の中に残った。
僕はそのヤゴを持ち帰った。
近くの公園で、小さな容器に砂を入れ、水を張った。でも水は濁り、ヤゴは見えなくなった。何度も砂を洗った。
暗くなった頃、ヤゴは死んだ。
その時、僕は少しだけ悲しかった。せっかく連れて帰ったのに、ちゃんと飼いたかったのに、どうすれば生きられるのかを僕は知らなかった。
子供の頃の僕は、生き物を飼うのが好きだった。そして、とても下手だった。
スイセンの花を、どこかの家から勝手に取ってきて、母に怒られたこともある。
きれいな花だった。ただ、きれいだから取ってきた。母にあげたかったのかもしれない。
でも、それは人の家の花だった。
僕は謝りに行かされた。
子供にとって、知らない大人の家へ謝りに行くというのは、かなり怖い。玄関先でうつむきながら謝った。
相手が何と言ったのかは覚えていない。
でも、帰り道の僕は、なんとなくしょんぼりしていた気がする。
悪いことをした、というより、
「きれいだと思っただけなのに」
という気持ちの方が強かったのかもしれない。
母は静岡県の生まれだった。
「あばれ天竜」の近くだと言っていた。
天竜川のそば。一度だけ行ったことがある。メロン農家だったらしい。
餃子を作るのがとてもうまかった。
僕も包むのを手伝わされたけれど、どうしても母みたいにはできなかった。皮の端がうまく重ならない。中身がはみ出る。
今でも僕は餃子をうまく包めない。
納豆には必ずカツオ節を入れた。しかも百回くらい混ぜる。
「まだ。もっと」
母はそう言って笑った。
粘りが出るまで、いっぱい混ぜる。それが僕の役目だった。
父と夕飯を食べた記憶は、ほとんどない。いつも母と二人だった。
その頃は、それを寂しいとは思わなかった。でも今になって思う。
子供というのは、寂しさに慣れると、それを普通だと思ってしまうのだ。
母は、すっぴんでは外に出なかった。
最低でも口紅だけは塗っていた。だから出かけるまで時間がかかった。
子供の僕は、それが少し面倒だった。早く行きたいのに、母は鏡の前で口紅を塗っている。
でも、あれは母なりの鎧だったのだと思う。
新宿の伊勢丹へ、よく一緒に行った。
屋上の昆虫売り場が大好きだった。
地下の食堂では、母はいつも柔らかい焼きそばを食べた。今でいう、あんかけ焼きそばだ。
僕はお子様ランチ。クリームソーダがついていた。
ストローの蛇腹部分を縮め、水を垂らすと、ぴょこんと伸びる。ミミズみたいで、それが面白かった。
母はそんな僕を見て、少し笑っていた。
あの頃の母は、まだちゃんと笑っていた。
小学一年生になると、桃井第一小学校へ通った。
最初の担任は宮崎先生だった。
ある日、僕は宮崎先生のおっぱいを揉んだ。
そして思い切りひっぱたかれた。
痛かった。
教室のみんなが笑っていた気がする。
でも、なぜそんなことをしたのかは覚えていない。小学一年の男子なんて、だいたいそんな生き物だった。
小学一年の頃、人生で初めて外でウンコを漏らした。
我慢できなかった。
団地の階段下だった。砂地だった。落ちていた新聞紙で拭いた。
誰にも見つからなかった。
でもものすごく恥ずかしかった。
たぶん、あれが人生で初めて、
「消えてしまいたい」
と思った瞬間だった。
古沢くんとは、休み時間によくサッカーをした。
僕がボールを高く蹴り、古沢くんがヘディングする。
「痛い?」
と聞くと、
「いてぇ! すげぇ!」
と笑う。
それが嬉しかった。
古沢くんは途中で転校してしまった気がする。
子供の頃の別れというのは、案外あっさりしている。でも、大人になってから急に思い出したりする。
文也くんは、少し離れた場所にあるプールで死んだ。
心臓麻痺だったらしい。
昨日まで普通にいた子が、突然いなくなる。
子供ながらに、人は突然消えてしまうんだと思った。
死というものを、初めて少しだけ現実として感じた瞬間だった。
小原さんの家には七段飾りの雛人形があった。
圧巻だった。
子供の僕には、あれが「金持ち」というものに見えた。
一ノ瀬さんの家は、もっとすごかった。
大きな家だった。
リカちゃん人形を大量に持っていた。
僕は男だったけれど、おままごとも嫌いじゃなかった。
一ノ瀬さんの家で、リカちゃん人形を並べたり、ゴムだんをしたりして遊んだ。近所の子供たちも集まっていた。
一ノ瀬さんは、少し大人っぽかった。
僕には、それが少し眩しかった。
小学一年の終わり頃、僕はカマキリの卵を見つけた。
学校へ持っていった。
クラスのみんなで、
「生まれるところを見よう!」
と盛り上がった。
でも、その頃には僕は転校していた。
下北沢へ引っ越したからだ。
知らない街へ行くのは、不安だった。友達もいない。土地勘もない。世界が全部変わってしまう気がした。
しばらくして、桃井第一小学校のみんなから手紙が届いた。
「カマキリ、生まれたよ」
小さなカマキリたちが元気に動き回っている、と書いてあった。
その手紙を読んだ時、僕は本当に嬉しかった。
忘れられていなかった。
ちゃんと、向こうの世界とつながっていた。
知らない街へ来て、一人ぼっちだった僕には、その手紙が本当に嬉しかった。
荻窪の空は、まだ広かった。